KMA まうんてんレポートblog

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小説風 1《個人山行》裏六甲 丹生山〜帝釈山〜稚児ヶ墓山縦走


暗い闇の中…遠くの方で、リズミカルな音を奏でているのが聞こえる。

目覚まし時計である。

身体を動かそうと、もがいてみるが上手く身体を動かせない。

脳裏に前日に参加した雨天ゴルフが蘇る。びしょ濡れになりながら、見失った白いボールを探した。足場が悪く…思い通りにプレーが進まなかった。最悪のコンディションである。

結果は、言うまでもなく散々だった。

一瞬、このままもう一度…眠りに落ちようか迷った。久々の予定が無い日曜日である。たまには、休息も欲しい。

やりかけの、バルコニーのDIYも中途半端である。

しかし、山に行きたい思いの方が少しだけ強かったみたいである。

山に行くと脳が判断した後の行動は早かった。ベッドから跳ね起き、早々に身支度の準備に取り掛かっていた。

一階のリビングに行くと、凍えるような寒さである。手慣れた動作でガスストーブのスイッチを押し、いつもの日課である、愛犬の頭を撫でる。抱っこを促すサインを送ってるくるが、「山から帰って来たらね。」と冷たく突き放してみる。

なんとも、寂しげな眼が堪らなく愛おしく感じた。

一回だけ抱きしめてから、ソファーの上に置いた。もう一度、抱きしめろと言ってる気がするが、「帰って来てからね。」と、今度は突き放した。

愛犬は、洗面所に入った私の後ろで、《ワン!》とだけひと鳴きしてみせた。


山準備を終え、駅まで歩く。だいたいの歩行時間は20分ほどである。いつもの景色であるが、つくづく代わり映えしない景色である。しかし、少しずつではあるが、この街も変化しているような気がする。新築の家や舗装工事などが目立つが、代わり映えしない相変わらずな街なのである。

この代わり映えしない街には、私の好きな大きな桜の木が途中の道に佇んでいる。今は冬支度を整え春を待つ古老のような出で立ちであるが、春には何とも言えない素晴らしい桜を咲かすのである。

昔からの癖で、この古老に「行って来ます」の挨拶をする。

もちろん、返事はない。私にとっては、近所の人に挨拶を行うような、当たり前のことになっている。挨拶を止めると、あの素晴らしい桜を見せてくれないのでは。と一人で思い込んでしまっているのかもしれない。



後、5分で駅に到着する。青空と太陽が気持ちを高ぶらせてくれる。ほんのり朝靄のせいか、遠くの景色を霞ませる。かなり冬支度装備を行なったつもりだが、寒気が容赦なく身体にまとわり付く。山に行けば、暖かくなるはずだ。と言い聞かせて歩幅を広げ駅に向かった。



休日の駅ホームには人が疎らである。部活動らしき学生や遊びに行く家族連れが目立った。

電車に乗ると、遠い記憶が蘇る。

まだ、幼稚園に入る前の記憶である祖父母のもとに、母と電車に乗った記憶である。いつも、私は海を見ていた。太陽に反射して光り輝く海が、とても綺麗だからである。光り輝く海の底には、竜宮城があると本気で信じていた。私は、いつも母に「あと、何個の駅で着く❓」と聞いていた。母は、豪快な笑い方をする人で、「あと、2駅!」と優しく教えてくれた後に、ガハハと笑うのである。

怒られる時は、鬼婆だが…優しい時は仏のようだった。

もう、その母も祖父母も、この世に居ないが、たまには、在りし日の姿を、思い出してやらないと、いつか怒られるような気がする。

車窓には、あの時と同じように光り輝く海が広がっていた。





電車とバスを乗り継ぎ、ようやく丹生神社前に到着である。今日の山行コースは、丹生山〜帝釈山〜稚児ヶ墓山と縦走するコースである。

山自体は、500メートル級の低山となるが、アップダウンを繰り返す山道である。

今日は、テント泊のトレーニングも兼ねている。担いでるザックの中には、16キロの重りが入っている。かなり、厄介な奴だと溜息が出る。

登山口まで来た時には肩と腰に、かなりの負荷がかかり、私の身体は悲鳴を上げている。

普通の方から見れば、何とも滑稽なトレーニングかと笑われよう。しかし、このトレーニングがいつの日にか、実を結び命を助けてくれるのである。と…くじけそうな私の弱い心に言い聞かせる。


《本日のお山》


丹生山(たんじょうさん/にぶやま)は神戸市北区山田町坂本の、六甲山系と共に六甲山地を形成する丹生山系または丹生・帝釈山系と呼ばれる山塊に属します。標高514m。山系にはこの山名が付いているものの、最高峰は596mの稚児ヶ墓山です。兵庫50山の一つ。神戸層群ができたあとに隆起し、できた山です。

帝釈山(たいしゃくさん)標高585.9mの山です。この山系では2番目の標高を誇ります。

稚児ヶ墓山(ちごがばかさん)標高585.9mの山。この山系の最高峰である。




まずは、丹生山に入山する。丹生山山頂には、丹生神社が祀られている。

歴史的にも、大変興味深い場所である。

丹生神社はかつて明要寺の鎮守社であった。『丹生山縁起』(元禄13年(1700年)頃)によれば明要寺は百済の聖王(聖明王)の王子童男行者が堂塔伽藍十数棟を建立したのが始まりとされる。東に建立した奥の院には梵帝釈天が安置されたため、帝釈山と称されるようになったという。妙要寺の開基がいつ頃かを伝える文献は発見されていないが、遺物からは少なくとも奈良時代には寺または修行場として存在したと推定されいる。

平安時代末期になると平清盛がこれを復興させ、福原京の鎮護として日吉山王権現を勧請してから「山王権現」と称されてきた。山上には丹生山城が築かれ、天正7年(1579年)には三木城の別所氏に味方した事から、羽柴秀吉の焼き討ちにあい数千人の僧・稚児が焼死、稚児ヶ墓山や花折山の名前はこの時の悲劇の伝承によるその後秀吉自身によって寺は再興されたが、明治維新後は廃仏毀釈で廃寺。童男行者の自坊であった舟井坊だけが当時残っていたという。




山道を進むと、かなりあれた場所である。先日の台風で倒木が道を塞いでいる。足場もガレ場が続く。背中の重りとダブルで身体を痛める。すかさず、ストック二本を取り出し身体を支えた。何も無いよりはマシである。身体からは止めどなく汗が吹き出し息遣いも早くなる。歯を食いしばりながら、坂道を登る。歩幅は小さく前かがみになっていた。

苦しい時には、苦しい時の光景が蘇る。私の場合は、中学校時代の部活動らしい。私は、バスケットボール部に所属していたのだが、中学校3年間はキツイ練習に明け暮れていた。クタクタになるまで、バスケットボールの練習を行い、最後の締めは必ずと言ってよいほど校舎の階段をダッシュでのぼり降りするのである。

いつ終わるのかも分からない階段ダッシュには、いつも辟易とした。

蛍光灯が点いていない真っ暗な校舎階段が、今目の前に広がっていた。

階段ダッシュが終わった時の安堵感は、登山で頂上に登った安堵感と似ている気がする。



たまらず、何度か立ち止まっては、へたり込んでしまう。自分では、もっと動けると思いこんでいたが、現実は甘く無い。老いを感じる瞬間である。紅葉や木々を照らす木漏れ日は、標高が上がる度に美しく平安絵巻のように流れるが、周りを見ている余裕が無かった。




ついに、頂上到着。素早くザックを身体から引き離す。膝をついて息を整える。身体の節々に痛みが走る。頂上では誰も人が居なかったので、大の字で空を仰いだ。痛みがあるが、何故か…まだ歩きたい衝動に駆られる。

不意に、前から初老の男性が現れた。

私は、すかさず立ち上がり、会釈した。

「登山始めて❓」と聞かれた。「いえ。何度か登ます。」と答える。

「登山初心者は、山登りしんどいからね。頑張って!」と励ましを受けた。

色々話しをすると、この男性も私と同じコースを山行するらしい。「次は帝釈山!」と何故か一緒に歩き出していた。

どうやら男性は、一緒に帝釈山に連れて行こうと考えてくれたらしい。お一人様登山時は、よくあることである。



丹生山から帝釈山の山道も整備が不足していると感じた。あまりハイカーが居らず蜘蛛の巣が多い。地図とコンパスを見ながら進むが、背中の重りが平常心を保たせない。

男性からは、「こんな、低い山でストックなんて要らんで!」と喝を受ける。苦笑いでしか返答出来なかった。




ようやく、帝釈山に到着。ここからは、六甲山系や北区の街並み。遠くは淡路島や四国が遠望できた。容赦なく吹き付ける風は冷たかった。すかさず、足元にあった適当な石に腰を下ろし休息した。身体が冷えむ前に、歩き出そうと決めていた。握り飯をザックから取り出し食べながら歩く。束の間に山行を一緒にした相棒に、「先に行きます。有難うございました。」と挨拶した。

「早すぎひんか❓ペースを考えんと最後にバテるで!」

と声を掛けられた。

いや…充分過ぎるくらいに、バテている。ペースを考えて時間配分しないと、目標地点にたどり着けない。今のペースで行けば日の入り前に辿り着けるか不安だった。

「はい、ゆっくり行きます。」と答え、次の目標である稚児ヶ墓山に向かった。




下山は、予想通りの急坂であった。

背中の重りでバランスを崩し、その度に踏ん張るのだが、どうしようも無いほどに膝が笑っている。地を這いながら山を下る。思うように、身体が動かない自分に苛立つ。苛立ちが高まっても、状況は変わらない。足を取られては、転んでは起き上がる。

もう、ズボンは泥だらけである。



悪戦苦闘を終えると車道に行き着いた。

多くの車とすれ違う。

ドライブに行きたいと思ってしまった。

稚児ヶ墓山は、目の前に迫っているが、歩いていても、なかなか登山口が近づかない。

何故か…

「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道」と口ずさんでいた。

この俳句は、幕末に活躍した新撰組 土方歳三が詠んだ俳句である。

何故、不意に口から出たのかは謎であるが、私としては殺伐ととした幕末に、失礼かもしれないが、新撰組副長 土方歳三が恋を詠んだ俳句が好きである。鬼の副長と呼ばれた土方歳三の心根の優しさを感じるのである。

私も時々、俳句を詠む事がある。下手の横好きであるが、短い言葉で心境を表すのは、難しくもあり楽しいのである。


「苦しくて近くて遠い登山道」


土方先生を真似て、一首詠んでみた。


お一人様登山時には、色んな事が頭に浮かんでは消えてゆく。自分の人生を第三者的感覚で見つめ直す時間を与えてくれる。

そんな時間を過ごすのも、登山の醍醐味かもしれない。




稚児ヶ墓山手前の池は、静かな場所だった。紅葉が池に映り、美しさを倍増させる。しばらく景色を楽しんだ。



稚児ヶ墓山の登山口からは、急登である。道無き道を進む感覚の山道である。

体力の限界が近づいてきている。最後の登りである。必死に食らいついて足を前に出す。

限界まで歩き、寝そべった。

寝そべった所で、誰も居ない。相変わらず自分の周りは誰も居ない。



周囲は静寂に包まれていた。聞こえてくるのは鳥のさえずりだけである。

青空を見ながら、息を整える。力を振り絞って稚児ヶ墓山を目指す。



稚児ヶ墓山到着。約400年前…時は戦国時代、覇王 織田信長が播磨侵攻の際に、播磨侵攻軍団長であった羽柴秀吉に敵対し別所家と行動を共にした為、僧侶や稚児が焼き討ちされた場所である。

悲しい場所なのである。

「しばらく休憩させて下さい。」と頭を垂れ合掌した。

約400年前の惨劇の場所は、今は平穏な空気が流れる静かな平和場所に様変わりしている。

しばらく休憩を取り下山する。下山道もなかなかの、山道である。踏み跡が無いので方向を一瞬迷う。やはり、疲労も極限に近づいているのだろう。

《リーン…リリーン》

遠くで、鈴の音がした。

ハイカー❓

立ち止まり、後ろを振り返る。

何も無い。荒れた道があるだけである。

《リーン》と、また一つ音が聞こえた。

周囲を見渡す。

もともと、踏み跡が分かりにくい山道だが、確実に様相が違う。

迷い道に踏み込んでいる。

すかさず来た道を、戻る。

相変わらず、周囲には誰も居ない。人の気配も無い。

なんとも、摩訶可思議な体験をした。いったい、何の音がしたのだろうか。

迷い道に踏み込んだ事を、誰かが教えてくれたのだろうか。オカルトチックな事を言う気は毛頭無いが、現実的では無いような気がした。不思議と、怖さは無かった。

ただ、無意識に稚児ヶ墓山山頂へ一礼した。




この階段を下れば丹生系縦走路山行も終了である。なんとか?日の入り前には下山出来そうだ。疲労感はあるが心地良い。しかし、今日の山行コースは丹生系縦走路の半分である。全山縦走路は、まさしくテント泊で山行したら面白いなと思った、

振り返ると今日歩いた山達が堂々と聳え立っていた。

今日は、愛犬と一緒にお風呂に入ろうかと思案しながら家路に着いた。