関西まうんてっく運営事務局ブログ【一期一会】

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群雲!関ヶ原へ!ウォーキングハイク♪


やっと!久々に、晴れました~!

さっぱりとした秋空です(*^。^*)


本日は、あの有名な!天下分け目の大合戦が行われた!岐阜県 関ヶ原に行って参りました(*゚ー゚)

歴史好きとハイクをコラボした企画です(*゚ー゚)

サークルとしては、第2弾となります(^-^*)


大阪から関ヶ原まではマイクロバス使用にて、19名参加でございましたm(_ _)m


それでは、行ってみましょう(*`艸´)


《本日の探訪場所》


関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦とも呼ばれています。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もあります。

主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっています。



大阪から関ヶ原に向けて、名神高速道路を北上します(*^。^*)






関ヶ原町歴史民俗史料館に到着後に、史料館内にて、館員の方に、関ヶ原の戦いを軽くレクチャーして頂きます( v^-゜)♪


館内撮影が禁止ですので写真がありませんm(_ _)m申し訳ありません。


史料館見学後に、お約束の武将ボードと撮影です(^.^)



史料館から、関ヶ原の戦い激戦地に移動しました(*ゝω・*)


本日のウォーキングハイクは、歴史を満喫するとの意味合いもありますが、地図《1/25000》とコンパスを使用して各武将の陣跡を巡ってみる企画です(^.^)

皆様!最初は、慣れないコンパスを使用して地図でセットした方向に向かいました(*`艸´)




《ここで、さらに関ヶ原の戦いをおさらい》


関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦を言います。

ちなみに、西軍総大将は、毛利輝元です。(関ヶ原の戦い時は、大阪城にて豊臣秀頼を補佐)

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。

先に石田勢が陣を《鶴翼の陣。武田信玄が得意とした陣構えです》構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となりました。

濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られました。

西軍は多くの将が様子見で戦に参加せず、戦闘したいたのは30000程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されました。

しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略していていたのです。

このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守ります。

そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けました。

「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は、西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。

そして、調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。

このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。

こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000~8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、徳川家康勢の大勝利となったのであります。



約400年前に、この狭い盆地で両軍17万人が動員されて戦闘が行われたと思うと、当時は圧巻だったと思われます。

それに、、、この時代に世界中の70%の鉄砲が日本に集中していたと言われております。

そう考えると、徳川対豊臣(石田)の天下分け目の大合戦は、世界的に見ても世界一大規模な戦闘であったと考えられます。



西軍(豊臣方) 石田治部少輔三成公と島左近清興公陣跡です(*^。^*)

笹尾山です♪


当時は、石田治部少輔を目の敵にした東軍の猛攻撃があり関ヶ原の戦い最大の激戦地と言われております。

今は、凄くのどかな場所です。


不思議なモニュメント?(*`艸´)石田治部少輔公の兜をモチーフにしているのでしょうか?


関ヶ原が一望でした♪

当時に想いを、偲ばせます( TДT)


昼食は笹尾山麓の島左近公陣地にて!!


《石田治部少輔公とは?》


石田治部少輔 三成(いしだ  じぶのしょうゆ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。佐和山城主。豊臣氏の家臣。五奉行の1人。

豊臣政権の文治派(官僚派)の筆頭で、徳川家康や武断派と対立。豊臣秀吉の死後、家康打倒のために決起して、毛利輝元を盟主に諸大名と西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。


《島左近清興公とは?》


島 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。本項目でも特に断りが無い限り「左近」と記す。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である。三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記

娘の珠は柳生利厳の継室となっており、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる。

島左近に、おいては関ヶ原の合戦にて討ち死や生き延びた。など諸説あります。


《治部少輔(じぶのしょうゆ)って何?》


「治部少輔」は、単なる「身分証明書の発券記号」だと考えたほうがいいと思います。

織田信長は、配下の武将達に、全員一律に「従五位下」の位階を、朝廷に申請してもらってます。これは「貴族」と呼ばれて宮中に出入りできる最低ランクです。つまり、「今日からおまえら、みんな貴族の仲間だ」というわけです。

「従五位下」というのは、律令制の位階です。

平安時代まで実効性があった「律令制」は、武士が実権を握る世の中になると急速に有名無実になりますが、人間の身分をランクづけする指標としての「官位」制度は、まだ生き残っているわけです。

「官位」というのは、朝廷における仕事と、それに対応したランクのことです。つまり、従五位下の位につくということは、それに相当する「宮中の仕事」が、名目だけ付いて来る、ということです。そこで、それぞれが適当な国の国司(県知事)とか、適当な役所の所長とか副所長とかの肩書きを名乗るわけです。「羽柴筑前守」とか「柴田修理亮」とかいったのがそれです。もちろん、いまやそんな役所も国司も現実には全く稼動していませんから、ホントに「名前だけ」です。従五位下という位を貰うための「方便」です。

というわけで、秀吉が天下を取ると、同じように配下の武将を一律従五位下にしてやり、それぞれそれに対応した「適当な肩書き」を貰ったわけです。それが「石田治部少輔」であったり「大谷刑部少輔」であったりしたわけです。「治部少輔」というのは、従五位下に対応する仕事のなかで、たまたま選らばれた名称に過ぎず、実際には意味はありません。だから「身分証明書の記号」にすぎないわけです。治部省という役所は現実にはもうありませんから、肩書きに対する実務はありません。

それでも、この「ニセ肩書き」は、本名(いみな)は滅多に使わないという日本の文化においては、通称として使われます。石田三成さま、という人間はいません、みんな「石田治部少輔さま」あるいは「ジブショー」と呼ぶわけです。

ちなみに、三成の本当の仕事は、豊臣家の「奉行」です、これは国家公務員ではなく豊臣家という私企業のなかの肩書きですから、「位」はついてきません。

「治部少輔」に実務はないのですから、彼がいなくなっても誰かを後任にする必要はありません。単なる「縁起の悪い記号」として、以降は使われなくなりました。



昼食後は、島津義弘陣地跡に向かいました。

笹尾山から!次は、島津義弘陣地跡にコンパスをセットして、地図とコンパスのみで向かいます(*゚ー゚)



《島津義弘公とは?》


島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎[3](いしんさい)と号しため、惟新公との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。関ヶ原撤退時は、敵の真ん中を一点突破を敢行した話が有名です。


南天満山の宇喜多秀家公陣地跡です♪

関ヶ原の戦いで、まともに戦ったのは、石田隊、島隊、宇喜多隊、小西隊、大谷隊だけだったと言われております(・・;)


《宇喜多秀家公とは?》


宇喜多 秀家(うきた ひでいえ)は、安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は備前宰相。戦国大名としての宇喜多氏最後の当主であり、岡山城主、備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石。

関ヶ原の合戦後に、薩摩国(鹿児島県)に逃げましたが後に八丈島に流罪となりました。


(東軍)福島正則公陣地跡です(*´・ω・`)b


《福島正則とは?》


福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。


予定では大谷刑部少輔陣地跡継にも行く予定でしたが、今回は、、、時間の都合で行けませんでした~(*T^T)

次の機会に、致しますm(_ _)m


一向は、最終の目的地である松尾山にある小早川秀秋陣地跡に向かいます。



関ヶ原の戦い終盤、この道を小早川の大軍が駆けおり大谷刑部少輔陣地に襲いかかりました。


登山道から山頂まで、約40分ほどで、到着しました((o(^∇^)o




ようやく!松尾山山頂に、到着です(*´∀`*)


松尾山山頂きから、伊吹山が綺麗に確認出来ました(#^.^#)

関ヶ原も一望出来ましたo(^o^)o

秀秋公。。。400年前、、、ここで迷ってたんですね~(*T^T)

迷うよね~( ̄▽ ̄;)

死ぬか、生きるかやもんね~


松尾山山頂にて記念撮影p(^-^)q


《小早川秀秋公とは?》


小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名した。

豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。


最後はサクサク♪っと下山しました(*^▽^)/★*☆♪


皆で、地図とコンパスを使いながら楽しくハイク出来、とても楽しいウォーキングハイクとなりました(⌒‐⌒)

ご参加頂いた皆様!有り難うございます(^-^*)



《ハイクだけに俳句》


薄野に(すすきのに)


 風透き通る(かぜすきとおる)


   群雲たち(むらぐもたち)



ご拝読、有り難うございましたm(_ _)m

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