KMA まうんてんレポートblog

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《イベントハイク》滋賀県 小谷城跡歴史ハイク♪


5月6日(日曜日)


ゴールデンウィーク最終日となりました

(*^▽^*)

最長で9連休の大型連休も、気がつけば…あっという間に過ぎ去りますね〜〜(´༎ຶོρ༎ຶོ`)


今回は、私がずっと訪れたかった場所です(><)


感無量でございます(*´ω`*)


しかも、語り部さん(歴史ガイド)付きでしたので、小谷城跡の細部まで、ガイドして頂きましたー(*≧∀≦*)




それでは、行ってみましょう♪



場所は、滋賀県 JR河毛駅(●´ω`●)となります。


無人駅でした…( ̄O ̄;)



駅前には、浅井長政公とお市の方の銅像が迎えてくれます(=´∀`)♪


◆山行ルート


JR河毛駅→小谷城跡口→出丸口→出丸→番所跡→虎御前山展望所→御茶屋跡→御馬屋跡→首据石→桜馬場跡(昼食)→赤尾屋敷跡→大広間跡→本丸跡→大堀切→中丸跡→京極丸跡→小丸跡→山王丸跡→六坊跡→大嶽城跡→六坊跡→大野木屋敷跡→三田村屋敷跡→御屋敷跡→徳昌寺跡→小谷城跡口




◆お山の説明


小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は1524年ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政と織田信長の妹で戦国一の美女といわれたお市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。

 織田信長との戦いで浅井家が滅んだ後、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉(ひでよし)に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせます。

 自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく)(495m)にも土塁が残っています。清水谷には、平時における浅井氏と家臣たちの館跡があります。昭和12年(1937)、国の史跡に指定されています。



スタートは、小谷城跡口から♪(*≧∀≦*)♪


大きな兜〜〜( ̄O ̄;)




語り部様(歴史ガイド)2名にて、懇切丁寧な小谷城跡の説明をして頂き、とっても分かりやすかったです(=´∀`)


本当に、有難うございました!



私が訪れたかった場所。


浅井長政公終焉の地です。



浅井長政公自刃之地と示された石碑の前にて、一人合掌。


卒爾ながら、浅井長政公最期の時を想像してみた。


駄文、大変申し訳ありません。



今から450年程前に生きた先人である。、義を重んじ、義に生きた戦国武将である。

現代人からすると、不器用な生き方にしか見えない武将であるかもしれない。しかしながら、その不器用な生き方にこそ、長政公の魅力が大いに感じられる。

その魅力に、引き込まれてしまった。


浅井長政公…下克上と言われる戦国の世を、風の様に吹き抜けた武人最後の時を綴る。



【最後の時】


1573年 9月1日、大雨と大風が吹き荒れた日であった。北近江小谷城本丸、京極丸の間にある水之手より夜陰に紛れた夥しい数の兵が乱入する。

織田家武将、木下秀吉(後の豊臣秀吉)率いる3000名の猛者達である。遡ること半刻前に、虎御前山本陣の敵将、織田信長より小谷城総攻撃の大号令が小谷城を囲む約3万の将兵に、発せられていた。


思い掛けぬ場所からの奇襲を受け、意表を突かれた小谷城浅井守備隊。約500名は、防戦一方である。


声とも思えぬ怒号と歓声が、堅固な山城に響き渡る。人と刀、物がぶつかり合い、血飛沫が舞う。

この時、浅井家最後の決戦と悟った長政は、重臣 、赤尾清綱(あかおきよつな)、弟の浅井政元(あざいまさもと)を引き連れ本丸より、御馬屋まで、討って出た。


『美作(赤尾清綱)、政元、今生…最後の戦じゃ。存分に楽しめ。』


と檄を飛ばす。長政。


『元より承知。お屋形様(浅井長政)こそ、存分に楽しまれよ。カッカッカッ』


豪快な独特な、笑い声にて老臣清綱が即答する。


赤尾清綱。浅井氏の家中で、清綱は非常に高い地位にある重臣である。

亮政(長政の祖父)の代から功があり、久政、長政の三代に仕える長老という権威もあって、浅井家では海赤雨の三将という異名を取っている。これは、海北親綱、雨森清貞と清綱の名字の第一字を並べたものである。

また、小谷城内には、赤尾屋敷がある。

通常、家臣達の屋敷は城下に住まわすのが、通例だが、清綱は城内に屋敷を持っていた。家中随一の信頼が厚かったという事であろう。


『鉄砲隊。前へ』


政元が号令する。


浅井政元。久政の次男として誕生し、(長政の3歳年下の弟)浅井家の財政管理を行っていた。智謀.謀略にも優れ、長政の参謀役として補佐した。


『放てー』

素早く下知する。


ドドーン。


一斉射撃の轟音と共に、白煙と硝煙が入り乱れる。

視界は霧と見間違うほどの白色が、辺りの姿を隠す。火薬の匂いが少し鼻につく。


『ギャー』


一瞬にして、命が消える刹那の絶叫と共に、甲冑を貫く、鈍い音の後に一面を朱色に染めた。


四半刻の防戦で長政の周囲を固めた親衛隊は、半数以下に減っていた。


3武将共に、上手く刀や槍の穂先をかわしてはいるが、強い疲労感が、押し寄せてくる。


『お屋形様。そろそろ潮時と存知奉る。

我ら、時を稼ぎまする。最期を見誤るべからず。』


清綱が、上奏する。


長政自身、最期の瞬間が近づいている事を本能的に、得心している。


『父上は、ご存命であろうか…』


後方の京極丸を、心配そうに、見上げる長政。

自分の事より他者を心配するのは、長政生まれつきの、性分である。


しかし、京極丸に立て籠もる。長政の父、久政は既に半刻前に木下隊の猛攻撃を受け、自刃しこの世には存在しない事を、長政は知らない。


『兄上。本丸は持ちこたえられませぬぞ。赤尾屋敷に、お入りくださいませ。』


兄想いの、久元が敵の攻撃を交わしながら、叫ぶ。


『うむ。皆の者、重畳である。これまでの、其方達の忠義。この長政、誠に痛み入る。礼を言うぞ。最後に下知するー!命を惜しむな。名こそ惜しめー!』


『オォー!』


味方が、応える。


聞き届け、踵を返し赤尾屋敷に、長政はゆっくりと、散歩に向かう様に歩き出す。数名の長政付きの、従者が、長政の後に付き従う。


『兄上〜!この久元。幼少の折より、兄上より受けたご恩は、死ぬる一瞬まで忘れませぬぞー。』


久元が叫ぶ。


少し、涙声である。


『お屋形様〜。憚りながら、美作。追っ付け、参りまするぞ。しばし、お待ち下さりませー。黄泉への一人旅は、ご勘弁下さりませ。カッカッカッ。』


やはり、豪快な独特の笑い方である。


背中を向け、右手を高く上げて長政は、返礼し


『大義』


とのみ、発した。


小谷城本丸より南東部に、赤尾屋敷がある。今まで、騒がしい戦場とは違い、赤尾屋敷内は、静寂に包まれている。

屋敷内の奥まで進んだ。10畳ほどの広間にて、素早く手慣れた動作で、兜と甲冑を、従者が脱がしていく。


肌着になると、その場に座り込んだ。


長政、瞑目する。


瞼には正室 お市の方と、万福丸、茶々、初、江達、子供の姿が浮かび上がる。


『さらばじゃ。お市…後は頼むぞ。』


お市御両人が居るであろう虎御前山方面に向けて、静かに、頭を垂れた。


目を開け、ゆっくりとした動作にて、左腹に小刀を突き刺す。想像以上の、激痛が身体を駆け巡る。

辛うじて、意識が飛びそうになるのを必死に堪え右腹に、小刀を移動する。


「しばし、今少し…この世の名残を…」


誰に言うでも無く一人呟いた。

長政の目には、懐かしき光景が鮮明に見えている。

桜の季節に、キラキラと太陽が照り返す琵琶湖を眺めれる場所である。

浅井家重臣と一族が並んでいる。三人の娘達を見る長政の顔は、満面の笑みである。


『茶々、初、江。其方達は、ほんに愛いのう。』


と長政が呟く。


じわじわと、視界の淵が黒く塗り潰されていく。

今は、お市の方の顔が微かに見える。


『市…』


声に無らない声で呟く。

徐々に…視界は、薄くなる。


エイっ。


従者の介錯の掛け声と共に暗闇が支配した。

先程までの、激痛も無くなり安堵の笑みを浮かべた。


未だ小谷城は、雨がシトシトと振り続けるのであった。



浅井備前守長政公

享年29歳。


長政公の死後、娘達(茶々、初、江)は、それぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。

豊臣家(羽柴家)と徳川家の天下の覇権争いに深く関わり、時代に翻弄され歴史を築く一翼となり現代へと続くのである。

義を重んじ、義を貫いた不器用な武将の命を惜しまぬ意地は、後世に名を残した。


命を惜しむな。名こそ惜しめ。


浅井長政公、誠の武士(もののふ)であり候。




※あくまでも、上記の一部は、私の想像にて記載させて戴いております。

ご理解頂ければ幸いでございます。